教えのやさしい解説

大白法 486号
 
七  慢(しちまん)
 「七慢」とは七つの慢心をいいます。
慢心とは、他をあなどる心、自ら驕り高ぶる心をいいます。
 「七慢」とは、慢・過慢(かまん)・慢過慢(まんかまん)・我慢(がまん)・増上慢(ぞうじょうまん)・卑慢(ひまん)・邪慢(じゃまん)をいい、『倶舎論(くしゃろん)』または『品類足論(ほんるいそくろん)』などに説かれています。
 一番目の「慢」は、自分より劣(おと)った者に対して「自分は優(すぐ)れている」と自負(じふ)し、同等(どうとう)の者に対しては「同等である」と心を高ぶらせることをいいます。
 二番目の「過慢」は、自分と同等である者に対して「自分の方が優れている」と思い高ぶり、自分より優れている者には「同等である」と侮(あなど)ることをいいます。
 三番目の「慢過慢」は、自分より優れている者に対して「自分の方が優れている」と自惚(うぬぼ)れて、他(た)を見下(みくだ)すことをいいます。
 四番目の「我慢」は、今では「耐(た)え忍(しの)ぶ」というような意味で使われていますが、仏法本来の意味は、自我に執着し、我尊しと自惚れ、それを恃(たの)むことをいいます。
 五番目の「増上慢」は、未(いま)だ悟(さと)りを得(え)ていないのに、「自分は悟った」と思うことをいいます。
 『法華経方便品』には、五千人の衆生が未だ悟りを得ていないのにも関わらず、釈尊の説法を聞く必要はないと増上慢を起こし、その座から立ち去ったことが説かれています。結局、増上慢となったこれらの衆生は、『法華経』の会座(えざ)において成仏することはできませんでした。
 六番目の「卑慢」は、自分よりはるかに優れている者に対して、「自分は少ししか劣っていない」と思うことをいいます。
 七番目の「邪慢」は、自分に徳がないのにも関わらず、あると思って、「自分は偉(えら)い」と誇(ほこ)ることをいいます。
 以上が「七慢」のおおよその意味ですが、慢心について『撰時抄』に、
 「慢(まん)煩悩(ぼんのう)は七慢・九慢・八慢あり」(平成新編御書八六九)
とあるように、仏教では「七慢」の他にも「八慢」「九慢」等と広く説き明かしています。
 日蓮大聖人が『新池(にいけ)御書』に、
 「皆(みな)人の此(こ)の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が、中程(なかほど)は信心もよはく、僧をも恭敬(くぎょう)せず、供養をもなさず、自慢(じまん)して悪見をなす。これ恐るべし、恐るべし。始めより終はりまで弥(いよいよ)信心をいたすべし」(平成新編御書一四五七)
と仰せのように、慢心は信心修行を正しく全(まっと)うする上での最大の障害(しょうがい)というべきです。
 なぜなら、「七慢」等の慢心を起こすと、自分自身の信心の姿勢も、また他の物事に対する問題も、すべてにわたって正しく判断することができなくなってしまうからです。
 この慢心は十四誹謗のなかでは驕慢お呼ばれ、信心を破る恐るべき謗法の一つとして、固く戒めるべきであるとされています。
 私たちは、慢心を起こさないように、常に題目を唱えつつ、自分の信心生活を謙虚(けんきょ)に反省(はんせい)していくことが大切です。